2011/06/26

コクーン歌舞伎 - 盟三五大切


2年ぶりのコクーン歌舞伎。

個人的な趣味として、歌舞伎は古典が好きな方なので、現代的解釈とか斬新な演出とか、奇を衒った展開とか、そういうのが苦手で、ラップまで登場した前回はちょっと遠慮しました。今回は、過去にも上演している演目だし、菊之助がコクーン初参加ということで、早々にチケットを手配し行って参りました。

中村勘三郎が休養中ということもあり、以前は勘三郎が演じた三五郎を中村勘太郎、浪人・源五兵衛を中村橋之助、そして芸者・小万を尾上菊之助が演じ、加えて、いつもの坂東彌十郎、片岡亀蔵、そして笹野高史が出演しています。

今回の芝居で出色は、やはり主役の橋之助と客演の菊之助。原作の鶴屋南北の世界を体現している橋之助演じる源五兵衛は、今は浪人とはいえ侍としてのプライド、特に義士に戻りたいという強い希望、そして一方で小万への一途な愛が演技以上に体から伝わってこないといけない難しい役どころだと思うのですが、それがよく出ていたと思います。小万へのストーカー的ともいえる過剰な愛は源五兵衛の狂気へと変貌し、現代的演出で薄くなりそうなこの芝居に重厚感を与えていました。特に、凄惨な小万殺しの場面の鬼気迫る演技は、歌舞伎ならではの殺しの“所作”とあいまって、狂気と美しさがなんともいえないバランスを保ち、感動的ですらありました。

夫・三五郎の頼み故、悪女になり、源五兵衛をまんまと騙す菊之助演じる小万も、惚れ抜いた三五郎に見せる可愛げのある女心と、源五兵衛の前で見せる色気としたたかさを巧く演じわけ、今や若手随一の女形の実力を遺憾なく発揮していたと思います。

三五郎の勘太郎は声や節回しがますます勘三郎に似てきて、 目をつぶっていたら、勘三郎かと間違えてしまいそうなぐらい。勘三郎譲りの愛嬌ある軽妙さと、肝の据わった押しの強さもあって観ていて楽しい。もちろん勘三郎の域に達するにはまだまだ経験と場数が必要だろうけど。

橋之助の息子・国夫が源五兵衛に仕える若党・六七八右衛門役で出演していましたが、まだ16歳の彼には少々荷が重いか、台詞回しにもまだ幼さが残り、頑張ってはいたけれど、芝居にもたつき感を与えてしまっていたのは否めなかったかなと思います。コクーン歌舞伎のもう一人の主役、笹野高史も一人二役で今回も健闘し、観客の笑いを大いに取っていましたが、ちょっとテンションが低かったように感じたのはお疲れ気味だったのでしょうか?三五郎の父としての役作りがあっさりしていたというか、演じ方にちょっと物足らなさも感じました。

ラストはコクーン歌舞伎らしい演出で、回り舞台を巧く使い、フラッシュバックのように過去の幸せな場面を再現するという、考えてみると、無常感さえ感じる哀切なシーンで終わるのですが、その中を彷徨う源五兵衛に天から大星由良助(大石蔵之助)の声が聞こえてきます。その声を休養中の勘三郎が担当しており、22日の公演から“リハビリ復帰”として、この日も紗幕の向こうに討ち入りの格好に身を包んだ勘三郎が登場。自分は熱烈な中村屋ファンではありませんが、やはり久しぶりに勘三郎の姿が見えたときにはウルっときました。まだ本調子ではなさそうでしたが、元気な姿が見られただけで歌舞伎ファンとしては何より嬉しいことです。

全体的に演目の古典らしさから離れず、演出的に踏み外すようなこともなく、>鶴屋南北の世界とコクーンの現代性が見事に融合し、非常に面白い芝居でした。黒御簾音楽に混じったチェロの生演奏も、古典性と現代性の媒介としての役割を巧く担っていて、逆に印象を深めていたと思います。

このコクーン歌舞伎が終わると、シアターコクーンはしばらく改修工事のため休業するとのことで、来年は生まれ変わったシアターコクーンでどんなコクーン歌舞伎が観られるのか今から楽しみです。

2011/06/13

五月大歌舞伎

もう3週間も前のことを書くのもなんなのですが、五月大歌舞伎の夜の部『籠釣瓶花街酔醒』の通し狂言を観てきましたので備忘録として。

今回はなんといっても、明治以来の通しということで、これを見逃したら、もしかしたら今生では観ること叶わないかもしれないわけですから、ちょっと観ずにはいられません。それに、八ツ橋の福助の評判が珍しく(失礼)すこぶる良いようで、これも背中をポンと押しました。

「籠釣瓶」は、あばた面の生真面目な田舎の絹商人・次郎左衛門(吉右衛門)が土産話にと寄った吉原で花魁・八ツ橋に一目惚れして通いつめ、やがて身請け話を持ち出すが、満座で縁切りをされ、それを恨んで妖刀・籠釣瓶で八ツ橋を斬殺するという人気狂言。全八幕の内、普段は5、6、8幕の一部が上演されているのですが、今回は普段は上演されないこの前後の話がついていて、次郎左衛門の“あばた面”の因縁や妖刀“籠釣瓶”の入手の経緯、また八ツ橋を惨殺したあとの顛末などが語られています。

総じて言うと、やはり現在でも上演されている「見染の場」や「縁切の場」、最後の「立花屋二階の場」の面白さは群を抜いていて、今回久しぶりに上演された場はというと、縁切の場と立花屋二階の場の間の“九重花魁の部屋の場”が八ツ橋の心情が吐露され、捨て難い場面だと思ったのと、最後の大詰めが演出次第ではかなり楽しめるのではないかと思ったぐらいでした。期待していた次郎左衛門の両親の因縁や、妖刀“籠釣瓶”を次郎左衛門に渡した侍・都築武助(歌六)の挿話は思ったよりあっけなく、まあカットされてもしょうがないのかなと思ったりしました。

とはいえ、観る側も筋がより分かるからか、吉右衛門にしても福助にしても芝居がより丁寧になっているからなのか、ドラマティックな「籠釣瓶」だったと感じました。吉右衛門の迫力は言うに及ばず、福助の心理描写はいつにもまして情がこもり、八ツ橋の苦しい胸の内がひしひしと伝わってきました。通常の上演だと歌舞伎にありがちな愛憎劇で終始してしまうところが、いつもは上演されない“九重花魁の部屋の場”などが入ることで、心理劇としても一流の芝居になっていたと思います。

通し狂言はなかなか上演が難しいかもしれませんが、これを機会に、今回評判の良かったいくつかの場面を復活させた「籠釣瓶」をまた観たいなと思いました。

2011/06/05

レンブラント 光の探求/闇の誘惑

先日、国立西洋美術館で開催中のレンブラント展に行ってきました。

ゴールデンウィークに寄ろうとしたときは、チケット売り場にも行列ができていて、入館待ちの様子でしたが、先々週の日曜日は幸い行列もなく、混んでるときに無理して観ないで正解でした(それでも館内はそれなりに混んでましたが)。

さて、今回の展覧会は、レンブラントの銅版画(エッチング)作品を中心に、“光と影の魔術師”レンブラントの魅力に迫るというものです。

傑作「夜警」に代表されるように、レンブラントはその特徴的な光と闇の描写で名を馳せた画家であることは言うまでもありませんが、エッチング(腐蝕銅版画)でも素晴らしい才能を発揮し、数々の傑作を残しています。

「羊飼いへのお告げ」

レンブラントは生涯に約600点の油彩画を残したそうですが、それとは別に銅版画も約300点も制作していたのだとか。銅版画は版(ステート)さえできれば、数十から100枚程度まで刷ることができるので、レンブラントにとって安定的な収入源となっていたといわれています。

そのエッチングでもレンブラントの特徴は遺憾なく発揮され、油彩画に引けをとらない光と闇のレンブラントワールドを見ることができます。

「貝殻」

今回の展覧会では、ステート(版)違いや版画紙の素材の違いにも着目し、同じ絵のステート違いや紙違いを並べ比較展示してくれています。東京国立博物館で開催中の『写楽展』でも刷りの違いが比較展示されていましたが、レンブラントの場合、ステートの違いといっても、単に刷りが違うという問題だけではなく、意図的に修正を加えたところもあり、また紙の違いも、その素材(西洋紙、ヴェラム(皮紙)、和紙等)によって売り先(高級顧客か一般客か)が異なったりと、とても興味深かったです。

「三本の木」

紙の違いによる色味(色の濃さ)の違いは歴然としていて、和紙は西洋紙と比べ、かなり陰影が深いというか、濃く刷り上るようです。レンブラントは和紙を好んだそうですが、確かに色の具合はレンブラントらしい気がしました。

会場には、もちろんレンブラントの油絵も。

「書斎のミネルヴァ」

「東洋風の衣装をまとう自画像」

常設展示では同期間中、「奇想の自然-レンブラント以前の北方版画」と題し、15世紀末からおよそ“レンブラント以前”の「奇想」と「自然」が交叉した独特の画風の北方版画の企画展も開催中です。こちらもお見逃しなく!


「レンブラント 光の探求/闇の誘惑」 国立西洋美術館にて
6/12(日)まで

もっと知りたいレンブラント―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)もっと知りたいレンブラント―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)